重なること、連なること。地層について思うこと。
フェイ・ターンさんとの出会いから、
もうすぐ1年となる4月6日のこのライブに
ファーカンダで前座できてとても良かった。
ライブのことはfbに書いたから、
こちらでは「地層」について、
感じ見出したことを書いてみよう。
「地層」をはじめて聴いたのは、
昨夏のネガコツアーで名古屋・鑪ら場で
フェイさんとご一緒したときで、
ソロでの演奏だったが、
その映像的なイマジネーションに驚いた。
それにのっけから138億年ですぜ?
ピアノは壮大な時間経過と世界を奏で、
詞は地球表面に登場する生きものたちと、
繰り返される生死の物語を語って…
Photo©︎KOW
名古屋・鑪ら場というライブハコの、
ほかに並ぶものなき雰囲気のなか、
この弾き語りに僕は揺さぶられた。
そして自分の記憶の海から
一冊の絵本が浮かび上がってきたのだった。
「せいめいのれきし」
バージニア・リー・バートン 文・え
いしい ももこ やく
歴史的名作絵本であることに
異を唱える人がいないこの一冊のなかには
いわゆる「地球史」が、
そのはじまりから
人間が家を築くようになった時代まで、
壮大な芝居のように描かれている。
ページをめくるたびに進みゆく年代。
わくわくしながらページをめくった。
どろどろの赤い溶岩球体の年代、
恐るべき雨降り球体の年代、
海におおわれし球体の年代、
そして地球に生き物が出現する年代…
やがて人間の年代にページは連なってゆく。
この絵本で、
三葉虫が泳ぐ年代をカンブリア紀と知った。
なんて不思議な響きなんだろう、と
呟いた僕は小学三年生だった。
地殻が変動し、風景が変わり、
生き物は進化し、種は入れ替わる。
いくつもの年代を経ながら。
今いるこの場所、仲間、家族、自分が、
深く重なった、長く連なった
物語の果ての果てのことと知るのだ。
もし、この壮大なる地球史を
子どもにわかるように描く
という作者の試みがなかったら、
地球史への人類の理解はかなり
遅れたものになっていたという気がする。
地質学者が研究して積みあげた
学説がいくら優れていても、
ただ図解したところでは、
ピンと来くるものにはならないだろうから。
時間とともに進化し、絶滅し、発生する。
その堆積、循環、変成を伝えるには、
壮大なスケールを
人間の平均的なモノサシと
相対化しなければならない。
さらに一発で
まるごと表現し切らねばならない。
理解しながらも、
構造に縛られてはならない。
もし閃きや直感というカタチで訪れる、
天啓ともいうべきものがなかったら、
バートンの「せいめいのれきし」は、
これほどの歴史的名作とはならなかった。
フェイさんにも
同じ天啓が訪れたのだ。
そして「地層」は生まれた。
一方、このような本もある。
1億年足りないが、有名な良い本だ。
とにかく言えることは、
これは理性と編集の産物であり、
天啓に恵まれてのものではない。
念のため!
もう一度言おう。
138億年の物語の映像がまるまる見えて、
その思念の柱が感じられる楽曲を
ポンと作ってしまうというのは、
普通では有り得ないことだ。
そう、天啓の閃きが到来しなければ。
今回はフェイさんからの依頼を受けて
「妄想力ビッグ・バーン!」などという
キャッチを書いてしまったが、
本当は「天啓ご降臨!」というべきだろう。
最後になるが、今回、フェイさんに
コーラスで参加していただいた
僕の曲「蔦」は、自分にとって「地層」だ。
これは、ある日、校庭のフェンスに這う
蔦を見ていて、
急に正体不明の憂鬱に襲われて、
その原因を探るように書き進むうちに
出来上がった曲だ。
全体にメランコリックで暗い曲。
最後にはひとつの境地に達する。
それが「連なり」というものなのだ。
「地層」の重厚でも天から降ってきた
明るいインスピレーションに比べて、
こちらは暗闇のなかの光といえようか。
重なりは垂直に、連なりは横に上に。
やがてすべてはひとつになる
ちなみに年内完成予定のKIATのCDには
フェイさんの声が連なっている。
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