考察・自分の好み(2)

カエターノの音楽から聴こえてきたのは、あらゆる音楽がそこにある、ということだった。つまりそのミュージシャンの特色を決定づける特定のサウンド様式に縛られていなかった。僕がそれまでに聴いてきたシンガーソングライターとは決定的に異なるそのサウンドには、ありとあらゆる音楽の要素を見いだすことができた。どんな音楽がそこに入っているのかなどといちいち挙げるとキリがないのでやめておくが。
カエターノ初来日のとき、バックステージにカエターノを訪ねた。サインをもらったとき「このジャケットはフェリーニ映画のワンシーンみたいですね」と伝えたら、カエターノは微笑みながら言った。「僕は映画監督になろうと思っていた」と(最近、カエターノが書いた著作物「熱帯の真実」を読んでいて、20歳前後のカエターノが映画監督を志すくだりに出会った)。そして僕はそのことを考えながら、あるとき思った。カエターノは表現を生み出すとき、自分の思考・感情・主張などを言語化する前に、自分のなかで映像化するのではないか、と。それから詩や音楽と言うカタチに変換しているのではないか、と。僕にとってカエターノの音楽は、どこか短編映画のようで、聴いていると視覚的にその世界が見えてくる。それは聴く映像なのだ。ドビュッシーのピアノ曲のように。タンジェリン・ドリームのシンセ曲のように。近いところではシナプスのオリジナル曲のように。そうか、僕の耳は、見る耳。
20代中頃からバンド活動に行詰まっていた僕は、カエターノから「映像的思念の音楽化」という手法を勝手に見出して、30代の始まりとともに音楽創作への営みを再開した。
もちろん僕はブラジル音楽を演奏するわけでもなく、ボサノバやサンバを演奏したいわけでもなく、ましてやカエターノのカバーをしたいのでもない。概念から歌詞を作りそれをメロディに載せることでもない。
ただモチーフを映像的に捉えてから曲や歌詞を作っていく…そのやり方を意識するようになった。考えてみれば自分はこれまでもそうしていたふしがあるけど、自分がそうやっていることに対する認識が希薄だった。バンド活動に行き詰まり、音楽へのモチベーションが低下していた時期に、それを見出したことで、音楽創作へのエネルギーに再び火がついた。
すでに絵の具が用意され、カメラにはフィルムがかけられている。それを扱う技術はこれから磨いていけば良い。大切な事は、夢や現実をそれらのツールを使って表現していくこと。そのツールが自分の手の内にあることがわかった。ただし僕の場合は音楽だけど。
音楽を構成する様々な要素は、普段意識することがなく聴いているときには、あまり気になるものでは無いかもしれない。
音楽にはメロディーがあり、和声があり、リズムがある。Aメロがあり、Bメロがあり、Cメロがある。それと同じ位大切なものに、音色があり、大小強弱ダイナミクス表現がある。そして細かなニュアンスの表現がある。これら全てが組み合わさっての音楽。
一方、映像の特質を考えるときに、まず欠かせないのは空間の状態。奥行きがあり広がりがある。光と影、湿気と乾燥、虚実、隙間…かすかな音にせよ鳴り響く音にせよ、映像の特質を備える音は、音楽の視覚化に大きな影響を与える。たとえビートが前面に鳴り響く音楽であってもそうした音楽は存在する。音楽のジャンルや曲調に関係なく。音楽を作っている人のバックグラウンドにその映像感覚が備わっているからそうなってしまうのだ。

映像を見せてくれる音楽が好き、と自分の好みがわかった30代。この頃から自分はしっかりと曲を作れるようになってきた。パフォーマンスはまだまだだったけど。

(続く)

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